ぶらり旅  2007年 6月20日 美濃路 清須から起宿(名鉄須賀駅)
                            

  清須宿まで歩いた美濃路の続き、今回は稲葉〜萩原〜起宿と行き名鉄須賀駅までです。
  JR清洲駅から東海道線のガード下まで戻り美濃路歩きを再開します。
  すぐに東名阪道をくぐると道は北へ向います。市場南で県道に合流すると左折、すぐ右折します。
  この辺りは結構寺が多く、しばらく行くと道筋に「信長の菩提寺総見院」の駒札が立つ。
  すぐ左手の奥に立派な山門と鐘楼が建つ。
  「総見院」
  ”ここはもと織田信雄(のぶかつ)が父信長の菩提を弔うため建立した総見寺があり、清洲越しで名古屋の
     大須に移った後、正保元年(1644)に尾張藩祖徳川義直がこの地に「総見院」として建てさせた”そうである。

  
  旧道に戻り少し行くと右手には「亀翁寺」がある。
  ここの「木造虚空蔵菩薩坐像」は南北朝時代の寄木造りで重要文化財に指定されており、25年に一度の
  御開帳となる秘仏である。
  
             
                総見院山門と鐘楼                         亀翁寺
  さらに進み民家の庭先に「北市場」の木札が掛かる先が「北市場美濃路公園」で美濃路の案内板がある。
  道は北へと行く、左手に立派な仁王門が建つ「長光寺」には尾張六地蔵の一つ、六角の地蔵堂があり
  六角堂の通称で親しまれているそうだ。
  その門前に古い道標が建つ。「四ツ家追分の道標」でこの先の岐阜街道との追分にあったもので「右 ぎふ
  ・・・ 」「左 京都道・・・」で下は折れていて読めない。
  資料に寄ると「右 ぎふ並浅井道」「右 京都道並大垣道」だそうである。
          
        長光寺仁王門                   六角堂             四ツ家追分の道標   
   
   丹羽盤恒子出生地の碑        「四ツ家追分」の石碑と岐阜街道           井之口一里塚跡 
  道は真直ぐ北に向かい突き当たると左に折れるが、角に「丹羽盤恒子出生地」の碑がある。
  ここ井之口村は、尾張藩の名筆家で名高い丹羽盤恒子出生地だそうである。
  道を折れてすぐの分岐には「四ツ家追分」の石碑が建つ。ここから右に岐阜街道となり美濃路との追分である。
  JR東海道線のすぐ手前が「井之口一里塚」があったところだが、今は小さな木札が立っているだけである。
                                                  

踏切りを渡って街道は西へ真直ぐと行く。
1キロほど行き道なりにカーブして井之口町を斜めに行き、更に先で
右斜めに入るとその先で左にと折れる。すぐのコンビニの道を今度は
右に曲がり、左に稲沢市の図書館を見ながら進み、信号交差点で左折する。
名古屋鉄道の踏切の手前に国府宮位置の鳥居が建つ。

踏切りを越えてさらに直進し、保育園の先で道なりに斜めに進む。
川を渡って変則交差点を斜めにとると稲葉宿へと入っていく。

  稲葉に入って突き当たりを左折するが、その右手、農林水産寺務所の垣根の中に「稲葉本陣跡の碑」が
  建っている。 この辺りは古い家並みが見られ昔の風情が残る町並みである。
    
  
     稲葉宿入口           本陣跡の碑                   古い家並み  
 

宿場の面影が残る町並みを行くと右手に「稲葉宿
問屋場跡」の碑が建つ民家があり、すぐ向かいに
円柱の「津島道の道標」がある。
「右 つしま道 三里」と刻まれている。
右にカーブする道を更に行き、小さい川を渡った
すぐを右折する。今度は道なりに左にカーブして
行くと県道14号(西尾張中央道)に出る。
ここで美濃路は消えている。
  
  県道を少し行き、左にある石橋浄水場への道を左にとって浄水場の前を右に折れる
  と美濃路に戻る。すぐに一宮市に入り突当りを左折し、中嶋宮の鳥居を見て後は
  道なりに進むだけである。
  
  何も無い道を歩き、光堂川を渡るとやや右にカーブして萩原町高木に入る。ここに「高木の一里塚跡」がある
  はず?だったが見逃した。先で高木神社を見て道は左折、そして右折し国道155号を渡る。
  名鉄尾西線の踏切と、県道を渡ると萩原下町で商店街の中を行く萩原宿である。
      
      萩原商店街          正端寺 高札場跡         上問屋場跡      荻原宿本陣跡
  下町の商店街を行き、左手にある正端寺の角が高札場跡、道は右に曲がり宿の中心部に入る。
  すぐの右手に「問屋場跡」の石柱が建ち、その先に「美濃路萩原宿本陣跡」の石柱がある。
  すぐにある四つ角を左に折れると萩原宿を出る。 日光川を渡り右折し道は北に延びる。
 
  東西に延びる名神高速道をくぐり北上して行く。西萩原で道なりに左へカーブして行き、県道を渡ると富田
  に入る。尾西富田郵便局の先に「富田一里塚」がある。美濃路で唯一現存する一里塚で榎の大木が今も
  生い茂っていて国の史跡となっており、西側には小公園が整備されている。こうした一里塚はなかなか見る
  ことができない貴重なものである。
  一里塚のすぐ先に「駒塚道道標」が建っている。美濃駒塚の尾張藩家老・石河佐渡守が名古屋へ参勤する
  ために開いた駒塚道との分岐である美濃路の追分である。
  この先黒板壁の立派な中嶋邸を見て更に北へと向かい起宿へと入る。
  
    
       富田一里塚・右塚               左塚                   駒塚道道標
  左に尾西市歴史民俗資料館を見ると起宿の中心部である。
  
  余談ながらこの資料館に「美濃路散策ルートマップ」があった。4シート構成で美濃路のルートが詳細に載って
  いてこれがあれば美濃路が全て分かる優れものだ。300円で販売されているのでお勧めである。
  
  美濃路に戻って、資料舘に隣接するのが起宿脇本陣跡の旧林家住宅。資料館別館として公開されている。
  その先が「本陣跡」で問屋場も兼帯していたそうで、本陣を世襲していた「加藤礒足邸趾」の石柱と共に立って
  います。ゆるくカーブする道を上がって行くと、少し左に「舟橋跡」の石碑があります。
  ”将軍や朝鮮通信使などの通行時、木曽川に長さ850m以上、船数270艘以上の日本最大の船橋が架けら
  れ、この辺りは船橋河戸と呼ばれ高札場がありました”
  とあります。
  
                    
        起宿脇本陣跡、旧林家住宅         本陣跡石柱            船橋跡
   
      宮河戸跡          旧湊屋主屋             起渡船場跡とj常夜灯(金比羅社前) 
  船橋跡碑から少し坂を上がると「宮河戸跡」、この先で県道18号を濃尾大橋で木曾川を渡るんですが、
  旧道は県道をくぐって先に延びています。すぐ先で堤防道路に戻る角に商家の旧湊屋主屋があります。
  堤防へ切り返す角の金比羅社の前に常夜灯と「起渡船場跡の碑があります。ここで旧道は対岸に船で
  渡っていますが、一旦堤防道路を戻り濃尾大橋で木曾川を渡ります。
  
      木曽川濃尾大橋             起渡船場 石灯台              いせみち道標
  橋を渡ってすぐに右に折れ堤防を行くと「起渡船場石灯台」がありました。昭和31年(1956)の濃尾大橋
  開通時に新井村湊の口から移築されたものだそうです。
  しばらく堤防を行き、金比羅社の森が切れるところで堤防を下ります。「金比羅社」の前を通り突当りを右に
  折れますが、その手前の民家の門の先に「いせみち」道標があります。「右 いせみち」「左 おこし舟渡」と
  刻まれた寛延3年(1750)の道標だそうで、ここが美濃路が起の渡しに向う追分です。
  ここから正木町を縦断するように美濃路は北に向います。

途中の正木町大浦の祠の傍に道標があるんですが石碑面がほとんど磨耗していて読めませんでした。

先の三叉路を真直ぐ行くと、正木小学校のフェンスの中に「史蹟一里塚跡」の石柱があります。不破一色・坂丸一里塚跡で左塚が不破一色村、右塚が坂丸村にあったとありますが、今はこの石柱が立つのみです。

  ここから道は更に北へと続き、名鉄竹鼻線を越えて行きますが、今回は次回の再開を考えてここ名鉄竹鼻線
  の須賀駅で終わることにしました。
  

                                                             もくじ