ぶらり旅 2007年 6月 6日 美濃路 佐屋街道分岐から清須宿
「名古屋城下デジタル復元地図」というのがあり、城下の古地図と現在の地図を重ねてみることができる。 この重ね地図を持って、四間道(しけみち)と円頓寺界隈を歩こうと思ったんですが、 四間道の横は旧美濃街道です。 ならばいっそうのこと美濃路を歩こうと思い、本来は熱田の宮からですが以前に佐屋街道で歩いた金山の 金山の佐屋街道分岐にある道標からからスタートしました。 美濃路は熱田宮から佐屋街道分岐を北に、国道19号の金山橋を渡って北上し、名古屋・清須・稲葉・萩原・ 起・墨俣・大垣を経て中山道の垂井に至るおよそ60キロの街道で東海道の脇往還です。 |
古渡町交差点の角に、格子造りで立派な卯建の上がる町家があり驚かされるが、米屋さんのようで今でも 営業されているようだ。 ここを右にとると東別院(東本願寺名古屋別院)がある。 交差点を渡り少し行くと国道から斜め右に本町通へ入る。 |
佐屋街道道標 国道19号金山新橋 卯建の上がる町家 |
蔵元の看板の酒屋 西本願寺別院 若宮大通本町交差点 |
本町通りに入ってすぐ左に古い醸造元看板が掛かる酒屋さんがある。少し旧街道の面影を見る思いだ。 そこから仏壇仏具の店が建ち並ぶ道を行くと左に西本願寺別院があり、すぐに大須商店街に入る。 大須観音をかすめて行くと若宮大通の白川本町交差点。広い通りを信号一回で渡るには早足になる。 道はいっそう賑やかになりビジネス街に突入、広小路、錦本町と行き桜通りの一筋手前が伝馬町本通。 すぐ北に「札の辻モニュメント」がある。ここがかっての「名古屋宿」の中心部である。 |
札の辻モニュメント 名古屋名所絵図と説明文 |
”慶長十八年(1613)、本町通伝馬町筋の交差点に、荷物の運搬に必要な人馬を継ぎ立てる伝馬会所が 設けられた。また寛文五年(1665)には、名古屋と江戸の間の書状物品の定期輸送を行うため、飛脚会所 も設置されました。・・・・・正保元年(1644)には、法度・掟書などを記した高札を掲げる高札場も交差点の 東南角に設けられた。”と説明にあります。 |
道はここから左に折れて西進しますが、すぐに伏見通りに阻まれ桜通りの「日銀前」交差点で迂回し戻ります。 少し先の堀川を伝馬橋で渡り右折、桜通を横断し掘り川沿いの道を行きます。 |
伝馬橋 堀川沿いの美濃路 道沿いの古い商家 |
古い旧家が残る道を行きますがなんとも車が多いのには閉口します。 300m程で右に五條橋ですがここから一旦戻ります。再び桜通り手前から一筋西の通りに出ます。 角に「村社浅間神社」をみて北上する道が「四間道(しけみち)」です。 |
神社の脇に「四間道」の説明があります。 ”名古屋城の築城と同時に城下町の建設が進められ、政治の中心も 清洲から名古屋に町ぐるみ移転した。これが「清洲越し」である。 ここは、その清洲越商人の町として生まれ繁栄したが、元禄13年(1700) の大火の後、防火の目的や商業活動のため道幅を4間(約7メートル)に 広げたことによりその名がついたといわれている。東側には石垣の上に 連続する土蔵、西側には町家が建ち並ぶこの独特な景観は、元文年間 (1740頃)に形成された・・・、堀川から荷を揚げた石畳や、屋根神様、 子守地蔵など下町情緒が今も残る貴重な地域です・・・”と。 |
四間道 土蔵群 |
町家の家並み 円頓寺商店街 |
そして四間道を出ると左が円頓寺商店街のアーケード。 右に五條橋があります。こちらにも橋の袂に説明があります。 ”かって、清須城下の五条川に架けられていた橋を、清須越しにより 行われた町ぐるみの引越しの際に、この地に移され、橋の名前も これに由来するといわれる。元は木橋であったが、昭和13年(1938) にコンクリートに架けかえられた。元の橋にあった疑宝珠には 「五條橋、慶長七年壬刀六月吉日」の銘があり、現在は名古屋城に 保存されている”とあります。 |
さて、ここから道はさらに北上して行きます。「サンゲツ」の手前で左折、すぐに「幅下公園に突き当たり、 道はここで消滅しています。そのまま右折し、国道22号線を歩道橋で渡りさらに直進、次の信号交差点を 左折すると、後は庄内川の堤防まで一直線の道を行きます。 |
江川の一里塚跡 白山神社 |
県道江川線の手前でゴミ袋と一緒に立つ「江川一里塚後」の駒札を見て信号を渡ると浅間町。 道筋に掛かる駒札を拾うように進むとやがて白山神社があります。傍らに「美濃路」の説明板がありました。 この後も何も見所の無い道をひたすら行きます。再び国道22号線を横断すると押切から枇杷島に入ります。 ときおり現われるお寺の駒札を見ながらさらに西に進むと、やがて庄内川の土手に突き当たります。 正面に旧枇杷島橋欄干のモニュメントをみて道なりに曲って行き、枇杷島橋で庄内川を渡ります。 |
旧枇杷島橋欄干モニュメント 枇杷島橋 橋詰神社 |
ここで道は新しくなっていて、手元の地図では斜めに入るのが美濃路なんですが、あるべき「大根モニュメント」 も、道標も見つけられなかった。ほんの僅かな距離で橋詰神社の所まで戻るが結局分からず先を行く。 橋を渡って道を左にとると西枇杷島町。ここには少し見所があり楽しみなところです。 |
美濃路まちづくり推進協議会 問屋記念館 店内 |
東海道線と新幹線のガードをくぐると道筋の各戸に「美濃路」の名札が掛かります。しばらく行くと「問屋記念館」 (旧山田九左衛門家住居)があります。”住居部分と商用部分を持った併用住宅で間口が狭く通りの庭に沿って 部屋が並び、奥に屋敷が配されるという典型的な問屋構成を成す” ものだそうです |
木造三階建ての家 古い町家・左に屋根の上に屋根が付く珍しい造り |
この辺りは古い民家が見られ街道の面影が色濃く残る。明治中期に建てられた木造三階建ての建物や 立派な格子造りの町家は右部分が漆喰の虫籠窓、左部分は屋根の上に窓の付いた屋根が載る?珍しい 建物である。そしてこの屋根神様である。 |
屋根神様 |
名古屋を中心に尾張に広まったといわれる屋根神様は、たいてい三つの神社のお札を祀っていると、 ”大部分は津島神社、秋葉神社そして熱田神宮の三社だそうで、それぞれ厄病除け、火難除け、そして 武運長久祈願といった意味が込められている”そうだ。 この辺りはまたお寺も多く、珍しい「日本一の宝塔」がある瑞正寺を過ぎると 新川を新川橋で渡る。 すぐ角のコミニュティ広場には、旧新川橋の親柱や津島街道の道標が建っていて 左にとれば津島街道。 ここには「美濃路の歴史」なる案内板もありどうやら最近新しく整備されたようである。 |
名鉄須ケ口駅を過ぎるて津島線の線路を渡るとすぐに「須ヶ口一里塚」がある。古渡、江川から三つ目の 一里塚になるそうだが、その先「正覚寺」門前には元一里塚のあった川中から見つかったという「一里塚」碑も あった。 |
須ヶ口一里塚 正覚寺一里塚碑 |
ここから道はやや北上して行き、古い民家の旧街道を行くと五条川に掛かる五條橋を渡る。 あの名古屋の五條橋はここから「清須越し」で移った橋である。 渡った橋のところから清洲宿に入る。すぐに清涼寺でここが清洲宿札の辻、右に曲がると先に清洲宿本陣跡。 ようやく美濃路の第3宿である。 |
清洲宿札の辻 宿の通り 本陣跡 |
ここで清洲宿へ入る、あの五條橋を撮らなかったことが悔やまれる。後にあった「清洲と前田利家とまつ」の 案内板に気をとられたわけではないが、やはり四間道から出たところの五條橋と関連するだけに残念! 歩いているとこのへんの組み立てが分かるんだけど今日は失敗!よくある話でした。 この後、清洲城天守閣に寄りました。この後の美濃路はあらためて歩きたいと思っています。 |
もくじ |